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コンピュート・ヘイブンの地政学 ― スーツケースに詰められたAIが暴く、米中技術覇権の新局面

  • 執筆者の写真: social4634
    social4634
  • 6月14日
  • 読了時間: 8分

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2025年3月初旬、クアラルンプール国際空港。

4人の中国人エンジニアが、それぞれ重そうなスーツケースを引きながら税関を通過していく。彼らの表情は一様に硬い。当然だろう。各自のスーツケースには15台のハードドライブ、合計80テラバイトのデータが詰め込まれているのだから。

彼らは別々のカウンターに並び、申告書には「個人使用のコンピュータ機器」とだけ記入した。税関職員が一瞬、スーツケースの重さに眉をひそめたが、それ以上の追及はなかった。

最先端のクラウド時代に、なぜわざわざ物理的にデータを運ぶのか? その答えは、米国の半導体輸出規制が生み出した、21世紀の新たな地政学的現実にある。

東南アジアは今、「コンピュート・ヘイブン」として急速に変貌を遂げている。金融の世界にタックスヘイブンがあるように、AI計算資源を求める企業が国境を越えて集まる新たな中立地帯が誕生しているのだ。

第1章:80テラバイトの重さ

マレーシアのデータセンターで、4人のエンジニアたちは慎重にハードドライブをサーバーラックに接続していく。彼らの雇用主である中国のAI企業は、このデータセンターで約300台のNvidia製AIサーバーをレンタルしていた。

「インターネット経由でデータを転送すれば?」そう考える読者もいるだろう。しかし、技術的な現実は想像以上に厳しい。

80テラバイトのデータを転送するには、10Gbpsの専用線でも約20時間かかる。一般的な100Mbps回線なら81日だ。さらに、中国と東南アジアを結ぶ国際専用線の月額料金は約100万円。継続的な大容量転送は、通信事業者や当局の監視対象にもなりやすい。

一方、物理輸送なら1〜3日で完了する。コストは航空券代とホテル代程度。4人に分散することで、税関での検出リスクも最小化できる。

エンジニアたちは8週間以上かけてデータを最適化し、AI訓練プログラムを調整してきた。データが国外に出れば、大きな修正は困難になる。すべては周到に計画されていた。

興味深いのは、「4人×15台=60台」のハードドライブで80TBという計算だ。1台あたり約1.3TB。市販の2TBドライブを使い、余裕を持たせた構成。プロフェッショナルな仕事だ。

第2章:デジタル時代のケイマン諸島

「コンピュート・ヘイブン」― 私はこの現象をそう名付けたい。

20世紀、多国籍企業は税負担を最小化するため、ケイマン諸島やスイスといったタックスヘイブンに資金を移動させた。21世紀の今、テクノロジー企業は計算資源へのアクセスを求めて、東南アジアという新たな「ヘイブン」に殺到している。

マレーシアの戦略は巧妙だ。

まず、税制優遇。「Malaysia Digital Status」を取得した企業には、10年間の法人税免除か5年間の100%投資税額控除を提供。ジョホール・シンガポール特別経済区では、標準24%の法人税率を最大15年間5%に引き下げる。

次に、インフラ整備の迅速化。「Green Lane Pathway」により、通常なら数ヶ月かかる電力供給の承認を数週間に短縮。2024年だけで429MWの電力容量を追加し、東南アジア最大の増加幅を記録した。

そして最も重要なのが、地政学的な「積極的中立」だ。

「我々は米中どちらの側にも立たない。両国との実利的な関係を維持する」

マレーシア投資開発庁(MIDA)の幹部は、匿名を条件にそう語った。実際、2024年の海外直接投資でシンガポールが570億リンギット、米国が230億リンギット、中国が120億リンギットと、バランスの取れた投資を受け入れている。

シンガポールも同様の戦略を採る。ただし、より洗練された手法で。

2025年2月、シンガポール当局は3名を半導体の不正輸出で起訴した。被告のLi Ming(51歳、中国国籍)には100万シンガポールドルという異例の高額保釈金が設定された。総額3.9億ドルの詐欺事案として立件されたこの事件は、シンガポールが「法の支配」を重視する姿勢を国際社会に示した。

しかし、現実はもっと複雑だ。摘発されたのは氷山の一角に過ぎない。データセンタービジネスは依然として活況を呈し、中国企業の利用は続いている。シンガポールは米国に配慮を示しつつ、実質的にはビジネスの継続を黙認している。

第3章:3400%― 異常値が語る真実


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2025年4月、マレーシアのGPU輸入額は27.4億ドルに達した。前年同月比で3400%増。この異常な数値は何を物語るのか。

台湾の貿易統計を精査すると、興味深いパターンが浮かび上がる。2025年3月、台湾からマレーシアへの半導体輸出は18.7億ドルを記録。4月にはさらに増加した。これらの多くがNvidiaのH100やA100といった最先端AIチップだ。

なぜ台湾経由なのか? 答えは単純だ。台湾は米国の輸出規制の対象外。同時に、世界最大の半導体製造拠点でもある。

中国企業の動きも活発化している。

ByteDanceは21.3億ドルを投じてマレーシアにAIハブを設立。データセンター拡張だけで3.2億ドルを投入する。Alibaba Cloudは、ジョホールのイスカンダル地域に120MW規模のデータハブを建設中だ。

「我々の東南アジア顧客の約70%は中国企業です」

GDS Holdingsの最新決算説明会で、経営陣はそう明かした。社名は伏せられたが、ByteDance、Alibaba、Tencentの3社が主要顧客と推定される。

この「ゴールドラッシュ」に参加しているのは中国企業だけではない。

Microsoftはマレーシアだけで22億ドルを投資。Googleは20億ドル、Amazon Web Servicesは56.6億ドルの投資を発表した。東南アジア全体のデータセンター市場は、2023年の102.4億ドルから2029年には177.3億ドルへ、年平均9.59%で成長すると予測されている。

しかし、この数字の裏には別の現実も潜んでいる。

第4章:猫とネズミの終わりなきゲーム

米国商務省産業安全保障局(BIS)は、2025年5月13日に新たなガイダンスを発表した。東南アジア経由の半導体迂回輸出に対する懸念から、11の行動指標を示し、監視を強化するという。

しかし、規制当局は常に一歩遅れだ。

「クラウドサービスは輸出ではない」― 長年、BISはこの立場を取ってきた。物理的な製品の移動を伴わないサービスは、輸出規制の対象外というわけだ。

この解釈が、新たな抜け穴を生んだ。中国企業は半導体そのものを輸入する代わりに、東南アジアのデータセンターで計算資源を「レンタル」すればいい。技術的には何も国境を越えていない。

2025年1月、バイデン政権は「AI拡散規則」を提案し、リモートアクセスも規制対象に含めようとした。しかし、トランプ政権は5月にこれを撤回。「米国企業に不必要な負担をかける」というのが理由だった。

シンガポールの摘発事例を詳しく見てみよう。

被告のAlan Wei(48歳)とAaron Woon(40歳)は、DellとSupermicroに対し、サーバーが「認可されていない第三者に転送されない」と虚偽の申告をした。しかし実際には、これらのサーバーは最終的に中国企業の手に渡っていた。

興味深いのは、彼らの手法の巧妙さだ。シンガポール法人を設立し、現地の取締役を置き、すべての書類を整える。形式的には完璧に合法的な取引に見える。

「違法ではないが、倫理的にグレー」

ある業界関係者はそう表現した。まさに、21世紀の技術覇権競争の本質を突いている。

第5章:楽園の影― 環境という時限爆弾

しかし、この「コンピュート・ヘイブン」には深刻な問題が潜んでいる。

マレーシア国家水道委員会のチャールズ・サンチアゴ委員長は、2025年初頭に衝撃的な数字を公表した。ジョホール、セランゴール、ネグリ・センビランの3州で、データセンターの水需要は1日8億800万リットル。これに対し、供給能力はわずか1億4200万リットルしかない。

「このままでは水不足による危機は避けられない」

熱帯地域特有の問題もある。シンガポールでは、データセンターの電力消費の37%が冷却システムに使われている。高温多湿な環境で、サーバーを適切な温度に保つには膨大なエネルギーが必要なのだ。

ジョホール州の72のデータセンター施設のうち、水使用の承認を得ているのはわずか17施設。残りは違法操業か、申請中の状態だ。

日本企業がこの問題の解決に貢献し始めている。

富士通は、Supermicro、日本電産と提携し、リアルタイム監視ソフトウェアによる液体冷却サーバーの最適化技術を開発。従来の空冷式と比較して最大40%のエネルギー効率改善を実現した。

栗田工業は、半導体製造に不可欠な超純水システムで世界シェア約2割を占める。同社の技術は、水のリサイクル率を大幅に向上させ、データセンターの水消費量削減に貢献している。

「技術的な解決策は存在する。問題は、それを実装する意志とコストだ」

ある日本企業の技術者はそう指摘する。

結論:新たなシルクロードの行方


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4人の中国人エンジニアは、任務を完了してすでに帰国した。彼らが持ち帰ったのは、AIモデルのパラメータを含む数百ギガバイトのデータ。80テラバイトを処理した成果だ。

この「デジタル密航」は、単なる規制回避の物語ではない。21世紀の技術覇権をめぐる、より大きな構造変化の象徴だ。

かつてのシルクロードが絹や香辛料を運んだように、新たな「デジタル・シルクロード」は計算能力とデータを運ぶ。その中継地点として、東南アジアは戦略的な重要性を増している。

半導体という「モノ」の輸出規制は、計算能力という「サービス」へのアクセス競争に形を変えた。物理的な国境は、デジタル時代においてますます曖昧になっている。

日本企業にとって、これは脅威であると同時に機会でもある。省エネ技術、水処理技術、そして何より、米中どちらにも偏らない立場を活かした事業展開の可能性がある。

規制と技術革新のイタチごっこは続くだろう。しかし、歴史が教えるのは、水は常に低い方へ流れるということだ。技術も、資本も、そして人材も、より自由で効率的な場所を求めて移動する。

東南アジアの「コンピュート・ヘイブン」は、その最新の現れに過ぎない。次はどこに新たなヘイブンが生まれるのか。あるいは、規制当局はついに効果的な網をかけることができるのか。

スーツケースに詰められた80テラバイトは、そんな未来への問いかけでもある。


 
 
 

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