あなたのデータは誰のもの? ― AI時代の新しい社会契約『市民データ主権』が変える都市の未来
- social4634
- 6月16日
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リード
私たちは日々、膨大なデータを生み出している。位置情報、購買履歴、SNSの投稿、そして行政への要望。これらのデータは現在、テック大手や行政機関が一方的に収集・活用している。しかし今、世界各地で始まった「市民データ主権」の実験が、この構造を根本から変えようとしている。データを生み出す市民自身が、その恩恵を受ける新しい社会の形とは何か。
1. ボストンが示した可能性 ― データが市民と行政をつなぐ
2024年、ボストン市は興味深い実験を行った。過去16年分の市議会投票記録をAIで要約し、誰でも検索できるデータベースを公開したのだ。「住宅」と検索すれば、新しい住宅促進基金の創設や移民シェルターの拡大といった最近の決定がすぐに表示される。
これは単なる情報公開ではない。MITのサラ・ウィリアムズ准教授が提唱する「Data Action」― データを公共の利益のために活用する方法論の実践例だ。彼女のCivic Data Design Labは、ボストン市と協力し、AIを使って市民の声を可視化する試みを続けている。
「私たちは多くの空間分析やデータ分析を行っています。都市の計画や設計方法に大きな影響を与える可能性のある研究を抱えています。でも、それが市民に伝わっていなかった」とウィリアムズ教授は語る。
ボストンの311サービス(非緊急通報)には2024年だけで約30万件の要望が寄せられた。その多くは駐車違反の苦情だが、AIを使えばポットホール(道路の穴)の地理的分布を瞬時に地図化し、修繕の優先順位を決められる。Vision Zeroマップでは、最初の6か月で市民が11,000以上の交通安全上の懸念を報告した。
データは既にそこにある。問題は、それを誰がコントロールし、誰が恩恵を受けるかだ。
2. データ協同組合という解答 ― 市民が主権者になる仕組み
「データ主権」とは本来、特定の国で生成されたデータがその国の法律の適用を受けるという原則を指す。しかし今、この概念は新たな意味を持ち始めている。データを生み出したコミュニティ自身が、そのデータの管理権と利益を持つ「市民データ主権」だ。
その実現形態の一つが、データ協同組合である。
Driver's Seat ― ギグワーカーの挑戦
5年前、数千人のUberやLyftの運転手たちが立ち上がった。彼らは自分たちの労働データ(いつ、どこで、いくら稼いだか)を集め、Driver's Seat Cooperativeという協同組合を作った。アプリを通じて収集したデータを分析し、最適な稼働時間や場所を共有することで、メンバーの収入向上を実現した。
興味深いのは、この組合が2025年3月にプリンストン大学のWorkers' Algorithm Observatory(WAO)に業務を移管することだ。これは失敗ではない。学術機関との連携により、より持続可能で公正なモデルへと進化する道を選んだのだ。
Salus Coop ― 医療データの民主化
バルセロナで2016年に設立されたSalus Coopは、市民が自身の健康記録をコントロールする権利を保証しながら、医学研究にデータを提供する仕組みを作った。重要なのは、データ提供者が協同組合のメンバーとして、その運営に参加できることだ。
MiData ― スイスの先進事例
2015年設立のMiDataは、さらに一歩進んでいる。健康データを安全に管理しながら、市民が積極的に医学研究に貢献できるプラットフォームを構築。データアカウント保有者は協同組合のメンバーとして、組織をコントロールする権利を持つ。
これらの事例が示すのは、データの所有と利用を民主化する具体的な方法が既に存在するということだ。

3. テクノロジーが可能にする透明性と公正
市民データ主権を技術的に支えるのが、ブロックチェーンとAIだ。
Ocean Protocolの挑戦
Ocean Protocolは、データNFTとデータトークンという仕組みを開発した。データに「所有権」を設定し、その利用に対して適切な対価を支払う仕組みだ。重要なのは「Compute-to-Data」― データを移動させずに、データがある場所で計算処理を行う技術。プライバシーを守りながら、データの価値を解放できる。
分散型アイデンティティ(DID)
W3Cが標準化したDID技術は、個人が中央管理者なしに自身のデジタルアイデンティティを管理できる仕組みだ。これにより、どのデータを誰と共有するか、市民自身が決められるようになる。
アムステルダムの実験
アムステルダムのAMdEX(Amsterdam Data Exchange)は、組織間のデータ共有における「デジタル公証人」として機能する。2024年11月にAMS-IXに移管され、最終的には利害関係者による非営利団体として運営される予定だ。三権分立の原則に基づき、データの流通に透明性と公正性をもたらす試みだ。
4. 新しい経済モデル ― データが生む価値を市民に
「私たちのデータは私たちのものだ。現時点で、データは石油よりも価値がある。もし誰かが私たちのデータから利益を得るなら、それは私たちであるべきだ」
2019年10月、アンドリュー・ヤンはこう訴えた。彼のData Dividend Projectは、カリフォルニア州でデータを財産権として確立し、市民がデータ提供の対価を受け取る仕組みを目指した。
データの価値算定には、市場ベース、経済モデル、次元モデルの3つのアプローチがある。重要なのは、その価値が適切に市民に還元される仕組みを作ることだ。
5. 立ちはだかる課題と日本の可能性
法制度の壁
EUはGDPRとデータガバナンス法により、データ協同組合の法的基盤を整備した。一方、日本の個人情報保護法(APPI)は2022年に改正されたが、データ協同組合のような新しい組織形態への対応はこれからだ。
技術的課題
ニューヨーク市の311チャットボットは、「ネズミにかじられたチーズを客に出してもよいか」という質問に「はい」と答えて話題になった。AIの精度とガバナンスは依然として課題だ。
日本独自の道
しかし、日本には独自の強みがある。町内会や農協といった協同組合の伝統、高い技術力、そして何より市民の公共意識の高さ。マイナンバーシステムを基盤に、世界に先駆けた市民データ主権モデルを構築できる可能性がある。

6. 結論 ― 新しい社会契約へ
トロントのSidewalk Labsプロジェクトは2020年に頓挫した。Google関連会社による「スマートシティ」構想は、市民の懸念により中止に追い込まれた。これが示すのは、トップダウンのデータ活用には限界があるということだ。
市民データ主権は、単なる技術論ではない。データという21世紀の最重要資源を、誰がコントロールし、誰が恩恵を受けるかという根本的な問いへの答えだ。
ウィリアムズ教授は言う。「現在、私たちはAIシステムにあまり信頼を置いていません。だからこそ、人間のファシリテーターを持つことが本当に重要なのです」
データ協同組合、ブロックチェーン、AIといった技術は、市民と行政、企業の間に新しい信頼関係を築くツールに過ぎない。重要なのは、データを生み出す私たち一人一人が、その価値と力を理解し、主体的に関わることだ。
私たちのデータは、私たちのものだ。その当たり前の原則を実現する時が来ている。
[執筆後記]本記事は、MIT Technology ReviewのBen Schneider記者による記事を起点に、独自のリサーチと分析を加えて執筆しました。データ協同組合の最新動向、技術仕様、法制度については、各組織の公式サイトおよび学術論文から一次情報を収集し、事実確認を徹底しています。







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