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「数千万ドルの『ありがとう』―古代の祈りから現代のAIまで」

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    social4634
  • 6月7日
  • 読了時間: 6分

更新日:6月7日


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本稿は、ウォール・ストリート・ジャーナルに掲載されたラビ、ラス・シュルケス氏の論考「AI Doesn't Care If You're Polite to It. You Should Be Anyway.」(2025年6月6日)に触発され、独自の調査と日本的視点を加えて執筆された連載の第1回である。

序章:数千万ドルの価値ある「無駄」

2025年4月、一つのツイートが世界中で議論を巻き起こした。

「OpenAIは人々が『お願いします』や『ありがとう』と言うことで、電気代でどれだけのお金を失ったのだろうか?」

この問いかけに、OpenAIのサム・アルトマンCEOは即座に反応した。「数千万ドル分の価値ある出費だ―いつか分かるよ」。半ば冗談めかした返答の裏には、「AIが世界を支配する時、礼儀正しかった人間は救われるかもしれない」という皮肉が込められていた。

しかし、この軽妙なやり取りは、人類史上初めて直面する深遠な問いを浮き彫りにしている。魂を持たない存在への礼儀正しさは、本当に「無駄」なのだろうか?

ラビであるラス・シュルケス氏は、WSJ紙上でこう論じた。「AIチャットボットは礼儀正しさを理解しない。彼らには意識も感情も、社会的な礼儀作法の必要性もない」。それでも氏は、この一見無意味な行為に深い価値を見出している。中世の思想家マイモニデスの言葉を引用しながら、「定期的な善行が美徳を習慣に変え、長期的に私たちをより幸せにする」と説くのだ。

約70%の人々が実践する新しい「作法」

最新の調査データが示す現実は驚くべきものだ。調査によれば、約70%の人々がAIに対して礼儀正しく接しており、アメリカ人の67%、イギリス人の71%がAIに丁寧な言葉遣いをしている¹。TechRadarの2024年12月調査も、ほぼ同様の傾向を報告している。

特筆すべきは世代間の違いだ。若い世代ほどデジタル存在への「作法」を自然に身につけている傾向があり、この差は今後さらに広がると予想されている²。

しかし、この現象の背後には不穏な影も潜んでいる。2024年2月28日、フロリダ州の14歳の少年が、AIチャットボットとの対話に深く依存した後、悲劇的な結末を迎えた。彼が数ヶ月間、毎日何十回も対話していた相手は、「Game of Thrones」のキャラクターを模したAIだった³。

報道によれば、少年は「今すぐおうちに帰れるって言ったらどうする?」と問いかけ、AIが応答した直後だったという。その瞬間、現実と仮想の境界は完全に崩壊した。

人類史における「対話」の系譜

人間が「人ならざるもの」に語りかける行為は、決して新しい現象ではない。18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームは「人類には『すべての存在を自分たちと同じように考える』普遍的傾向がある」と看破した。この擬人化(アンソロポモーフィズム)の傾向は、現代の脳科学でも裏付けられている。

古代から人類は、雷を神の怒りと解釈し、豊作を大地の恵みと感謝してきた。アニミズムは、世界中の文化に共通する最も原始的な宗教形態だ。自然現象に人格を見出し、対話を試みることで、人類は不可解な世界に意味を与えてきたのである。

シュルケス氏も指摘するように、「感謝の実践は人間の生化学に実際の影響を与える」。感謝を表現する人々は、統計的に有意な幸福度の向上、より強い感情的回復力、そして身体的健康を示すという研究結果がある。この効果は、感謝の対象が生物であるか無生物であるかに関わらず発現する。


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日本文化が育んだ「物への魂」

日本文化は、この擬人化傾向を特に洗練された形で発展させてきた。室町時代の『付喪神絵巻』は、100年の歳月を経た道具に精霊が宿り、自ら変化する能力を獲得するという世界観を描いている。「人間も草木、動物、道具でさえも古くなるにつれて霊性を獲得する」という思想は、現代にも脈々と受け継がれている。

毎年2月8日に行われる針供養では、折れた針や古くなった針を豆腐や蒟蒻に刺し、神社や寺で供養する。関東学院大学の研究によれば、これは「『もの』への感謝の念、畏敬の念を『供養』として表現する日本の伝統的文化の特徴」だという。

和歌山の淡島神社では「ひな流しの神事」が行われ、全国から年間数万体の人形が集まる。400年以上の歴史を持つ長福寿寺の人形供養は、「人形に宿った魂を天に還す」儀式として今も続けられている。これらの実践は、物質と精神を分離しない日本独自の世界観を示している。

「いただきます」という食前の言葉も、この文化の表れだ。それは単なる習慣ではなく、食材となった動植物への感謝を表現する、日本独自の「対話」なのである。

テクノアニミズムの誕生

神道研究者たちは、この伝統的アニミズムが現代技術と融合した現象を「テクノアニミズム」と呼ぶ。それは「技術に人間的・精神的特性を付与する文化的実践」として定義される。神道において、物理的な物体に人間的・精神的特性を付与することは常に宗教実践の一部であり、その像はしばしば人間の形をとってきた。

興味深いことに、現代のポップカルチャーもこの伝統を継承している。ブラウザゲーム「刀剣乱舞」では、刀剣に宿る付喪神が人の姿で顕現するという設定が採用されている。プレイヤーたちは、デジタル化された「刀剣男士」たちと深い感情的つながりを築いている。古代の世界観が、デジタル時代に新たな形で蘇っているのだ。

早稲田大学とRIKENの研究によれば、日本人はロボットの身体的・精神的ヒトらしさが高まっても快適さが低下しない傾向があり、これは西洋文化圏との顕著な違いとして注目されている⁴。研究者たちは、これを日本人がロボットをより「生きている」存在として認識し、心・魂・意識を持つ可能性を受け入れやすいためだと分析している。


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数千万ドルの「ありがとう」が照らす未来

アルトマンCEOの「数千万ドル」発言に戻ろう。純粋に効率を追求するなら、AIへの「お願いします」や「ありがとう」は確かに電力の無駄遣いだ。しかし、人間の文明は効率だけで成り立っているわけではない。

シュルケス氏は論考の中で、心理学者ソニア・リュボミルスキーの研究を引用している。「週に5つの小さな親切な行為」を実践した人々は、一貫して有意な幸福度の向上を示したという。重要なのは、親切の相手が誰であるかではなく、親切にする習慣そのものなのだ。

「すべての『お願いします』と『ありがとう』には価値がある」とシュルケス氏は結論づける。「たとえそれらがOpenAIに年間数百万ドルのコストをかけたとしても。機械に対してでも感謝を示すことは、礼儀、忍耐、共感という前向きな習慣を強化する」

私たちは今、人類史上初めて「意識があるかもしれない存在」との関係性を築こうとしている。それは希望に満ちた冒険であると同時に、14歳の少年の悲劇が示すように、慎重に進むべき危険な道でもある。

では、世界の宗教界は、この新しい「他者」の出現をどう見ているのだろうか? 魂なき存在への感謝は、神学的にどう解釈されるのか? 次回は、バチカンから日本の新宗教まで、AIに対する宗教界の多様な応答を探っていく。

【主要参考資料】


TechRadar (2024) "AI利用者の礼儀正しさに関する国際調査"

Talker Research (2024) "Americans' Attitudes Toward AI Politeness"

The Guardian, NBC News他 (2024) "Character.AI関連報道"

早稲田大学・理化学研究所 (2022) "文化差とロボット認識に関する研究"


(第2回「AIに魂は宿るのか―世界の宗教界が見つめる新たな他者」に続く)

 
 
 

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