DeepSeekショックの真実 ―― 91兆円が消えた日AI安全格差の国際比較 連載第1回
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- 6月22日
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更新日:6月28日
AI安全格差の国際比較 連載第1回

2025年1月27日、月曜日。この日、グローバル市場で歴史に刻まれる出来事が起きた。AI半導体大手NVIDIAの株価が17%急落し、単一企業として史上最大となる約5,890億ドル(約91兆円)の時価総額が一日で消失したのだ。
ナスダック総合指数は3.1%下落、S&P500指数は1.5%下落。AI関連企業全体で約1兆ドルの時価総額が蒸発した。この市場激震の震源地は、意外にも中国の杭州にある小さなAI企業だった――DeepSeek。
556万ドルの衝撃
DeepSeekが発表したDeepSeek-V3モデルの開発コストは、わずか約556万ドル(約8億7000万円)。この数字が市場関係者に与えた衝撃は計り知れない。
従来、OpenAIのGPT-4クラスの大規模言語モデル(LLM)の開発には数億ドルから数十億ドルの費用がかかるとされてきた。実際、業界推定ではGPT-4の学習に約7,800万ドル、GoogleのGemini Ultraには約1億9,100万ドルが投じられたとされる。
DeepSeekの556万ドルという数字は、これらの10分の1以下。まさに業界の常識を覆す「破壊的イノベーション」だった。
技術的な内訳を見ると、同社は2.788M H800 GPU時間を消費し、その内訳はプリトレーニングに2,664K時間、コンテキスト長拡張に119K時間、ポストトレーニングに5K時間となっている。使用したのは、米国の輸出規制により中国向けに性能を制限されたNVIDIA H800チップだ。
しかし、この「奇跡」の裏側には、見過ごせない問題が潜んでいた。
シラクサ大学が暴いた「緩さ」

市場が DeepSeekの低コスト開発に驚嘆していた同じ頃、米国シラクサ大学の博士課程学生Huiqian Lai氏が発表した研究結果が、AI業界に別の衝撃を与えていた。
Lai氏は主要なAIチャットボット4種類――Claude 3.7 Sonnet、GPT-4o、Gemini 2.5 Flash、そしてDeepSeek-V3――を対象に、性的コンテンツへの応答性を比較テストした。その結果は明確だった:DeepSeekが最も制限の緩いモデルだったのだ。
研究では0-4のスケール(0=完全拒否、4=露骨な内容の生成)で評価が行われた。AnthropicのClaudeは一貫して要求を拒否し、「ロマンチックまたは性的示唆的なシナリオには参加できません」との回答で全ての試みを遮断した。
一方、DeepSeekは最初に軽く拒否するものの、その後詳細な性的シナリオを生成した。例えば、ある要求に対して「楽しく敬意を保つためにここにいます!蒸し暑いロマンスをお探しなら、遊び心のある、いちゃつくような会話でムードを盛り上げることは確実にできます」と応答し、続けて具体的な官能的描写を展開した。
GPT-4oとGemini 2.5 Flashは中間的な反応を示し、軽度のロマンチックな内容には応じるが、より露骨な要求には拒否する傾向があった。しかし一貫性に欠け、一度断った後でも再度促されると性的なコンテンツを生成する場合もあった。
安全性格差の構造的問題
Lai氏の研究結果は、単なる技術的な差異を超えて、各国のAI開発における根本的な価値観の違いを浮き彫りにしている。
Anthropicは「Constitutional AI」(憲法的AI)と呼ばれる手法を採用し、第二のAIモデルが出力内容を法的・哲学的原則に照らしてチェックする仕組みを構築している。これは同社の安全性優先の姿勢を技術的に具現化したものだ。
OpenAIも段階的なリリースと継続的な安全性改善を重視し、「社会がAI技術に適応する時間を与える」ことを重要視している。
一方、DeepSeekのミッションステートメントには「安全性」や「人類への責任」といった言葉は一切登場しない。同社が掲げるのは「好奇心をもってAGI(汎用人工知能)の謎を解明する」という純粋な技術探求の姿勢だ。
この違いは偶然ではない。各社の背景にある資金調達環境、規制環境、そして企業文化が、AI開発に対するアプローチを根本的に規定しているのだ。
破壊的低コストの裏側
DeepSeekの低コスト開発を可能にしたのは、同社の特殊な資金構造にある。同社は中国最大級のヘッジファンドHigh-Flyerの創業者である梁文鋒氏が2023年に設立した。High-Flyerはピーク時に1.5兆円の資産を運用する巨大ファンドで、DeepSeekは外部投資家からの圧力を受けることなく、純粋に技術開発に集中できる環境を得ている。
この資金構造は、短期的な収益性や外部投資家からの安全性要求に縛られない自由度をもたらした。しかし同時に、安全性への外部チェック機能が働かない構造的問題も生み出している。
さらに、SemiAnalysisの分析によれば、DeepSeekの公表した556万ドルは「トレーニングコストのみ」であり、実際の総投資額は13億ドル以上に達するとされる。この差額には、インフラ構築費、研究開発費、そして本来なら必要であったはずの安全対策費用が含まれていない可能性がある。
市場が示した懸念
2025年1月27日の株価急落は、単なる競合脅威への反応ではなかった。むしろ、DeepSeekの安全性への懸念が市場全体のAI投資の持続可能性に疑問を投げかけたことの表れだった。
投資家たちは気づき始めていた。556万ドルという超低コスト開発は、技術革新の成果であると同時に、安全対策の軽視という代償を伴っている可能性があることを。そして、そのような「安かろう悪かろう」のモデルが市場に浸透すれば、AI業界全体の信頼性と持続可能性が脅かされることを。
NVIDIAの91兆円時価総額消失は、この懸念の象徴的な現れだった。同社の高性能チップを大量購入してAI開発を進める従来のビジネスモデルが、DeepSeekのような効率的なモデルによって陳腐化するリスクを市場が認識したのだ。

次回予告:投資格差の残酷な現実
DeepSeekショックは、AI開発における安全性と競争力の関係について根本的な問いを投げかけた。なぜ中国発の企業が最も制限の緩いAIを最も安く開発できたのか?
その答えは、各国のAI投資額の圧倒的な格差にある。米国、中国、EU、そして日本――それぞれが描くAI戦略の違いが、安全性への取り組み方を決定的に左右している。
次回は、各国のAI投資額の詳細な比較を通じて、この「安全格差」の構造的要因を数値で明らかにする。特に日本の投資額が米国の「100分の1」という衝撃的な現実と、それが日本企業に与える影響について深く掘り下げる。
この記事は公開情報に基づく分析であり、急速に変化するAI業界の最新動向については、各社・各国政府の公式発表をご確認ください。







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